解説「多喜二奪還事件」(伊勢崎事件) |
1、「多喜二奪還事件」の前提 |
「多喜二奪還事件」を簡潔に表現したのは、『随筆柿』に載る菊池邦作「伊勢崎署占領事件」で紹介された菊池盛男の次の言葉です。「俺はこれから伊勢崎署に、不当検束されている小林多喜二、中野重治、村山知義の諸先生や同志を奪還にゆくんだ。自ら進んで警察にゆく俺を検束する必要はない。」これは、茂呂村の菊池敏清宅での検束を逃れた菊池盛男が文芸講演会の会場である共栄館に走り、真相を聴衆に訴えた中での言葉です。つまり、官憲側は、伊勢崎の青年グループが計画した文芸講演会の講師としてやって来た多喜二たち講師陣とこの文芸講演会を企画した幹部グループを事前に検束し、この文芸講演会の開催を阻止することを狙ったわけです。この弾圧の目的について、矢島孝は「民衆の勝利 伊勢崎警察署事件」の末尾で「活動家を検挙・起訴・実刑というレールに乗せるのではなく、社会主義思想の広がりを断固抑えるという思想妨害であった。」(徳江健・石原征明編著『事件と騒動 群馬民衆闘争史』)と論じています。ここでいう「思想妨害」は、治安維持法によっての弾圧を意味していますが、関口正己は「戦禍の中の暮らし」で、「戦争は県民の暮らしを脅かした。戦争はいつの時代も人々の生活を圧迫し自由を奪ってきた。」として、本事件などを挙げて、「戦争への序奏ともいうべき布石は厳しい言論封じから始まっていた。」と指摘しています。 ところが、本事件は、そういう弾圧を民衆の力で跳ね返したところに大きな特徴があります。事態の推移の中で、一時的にせよ民衆が「警察署を占領」するという事態が生まれます。この事態を菊池邦作は「伊勢崎署占領事件」の冒頭で「常識上ちょっと想像もできないような珍しい事件」「戦争前の無産運動に経験をもつ者にとっては、到底信ぜられない」「誰も取調べもうけず、調書もとられずに釈放されたという珍事件」(『随筆柿』)と述べています。坂内一登司や吉田庄蔵は「普通なら騒擾罪」と語っています。戦後いち早く日本の民主化の論陣を雑誌『潮流』で作った吉田庄蔵は、昭和二十一年九月号の編集後記で「今度の座談会で久しぶりに鹿地亘氏に会った。十数年前のことである。鹿地氏たちをめぐり日本社会運動史上特筆すべき大きなことがらが、いまだ未発表のまま残されている。いつか発表の機を得たいと思う。」と語っています。鹿地氏が伊勢崎に来たのは、この時ではなく、多喜二奪還事件から約半年後の昭和七年二月十一日のことでしたが、「日本社会運動史上特筆すべき大きなことがら」というのは、この「多喜二奪還事件」と考えていいでしょう。 以上のような民衆のエネルギーが爆発した背景の一つに、主催者グループの特徴が関わっていると思います。主催者グループは、菊池邦作の「群馬県社会運動の歩み(下)」(『労働運動史研究』十九号)の「伊勢崎警察署占領事件」の項で述べられた「伊勢崎町の社民党【社会民衆党】支部を中心とする文化団体」とするのが一般的です。普通なら無産運動の右派で、反共を特徴とする社会民衆党ですが、このグループは違いました。主筆の菊池邦作、当時は小林邦作でしたが、彼を主筆とした『上毛大衆』が二年近く発行され、菊池邦作は「治安維持法を撤廃せよ」という論文を書く程、国家権力との対決姿勢を鮮明にしていました。また、ナップ会員であった菊池敏清を中心に『戦旗』の定期購読が五十部あり、最高時には百五十部に到達していました。この多喜二奪還事件の一年前には、「無産青年新聞」への大弾圧があり、社会民衆党員であった斎藤力と菊池盛男は約九ヶ月の未決勾留を余儀なくされ、その後起訴されました。二人への執行猶予の判決が出たのは、奪還事件のわずか一ヶ月前に過ぎません。つまり、地下の日本共産党の指導を受けた共産青年同盟の合法的機関紙として発行されていた「無産青年新聞」の読者網もあったわけです。社会民衆党の伊勢崎支部は、昭和六年に六十名となっており、彼らは革新的な雑誌や新聞を読み、労働組合運動から農民運動、プロレタリア文学運動まで多用な活動を展開していました。さらに、奪還事件から四ヶ月後の翌年一月には菊池盛男が中心となり、消費組合運動が始まり、そのために、無産政党の伊勢崎支部を解散しています。つまり、彼らは、民衆の要求に根ざした、粘り強い、多様な運動を展開していたと言えるでしょう。この「多喜二奪還事件」が、彼らのその活動の一つの成果であるとともに、より一層の促進になったと考えられます。 次に、これまで見落とされてきた点があります。それは、一九三一年九月六日(日)という日は「国際青年デー」だったということです。日本国内では、「国際無産青年デー」として、無産青年の要求と反戦平和の旗が高く掲げられ、各地で運動が取り組まれました。東京朝日新聞群馬版九月五日付によると、九月六日(日)午後六時に、「佐波無産青年主催の文芸講演会」とあります。この点を石原征明(ゆくあき)は重視し、「この日は伊勢崎の共栄館で、無産青年同盟有志の主催によるプロレタリア作家文芸講演会が開かれる」(『ぐんまの昭和史(上)』)と述べています。「佐波無産青年」が「国際無産青年デー」と無関係のはずはありません。この「国際無産青年デー」を意識して、本事件の文芸講演会は設定されたと考えられます。そのことを裏付けるのは、同じグループが五ヶ月後に開いた文学研究会です。それは、建国記念日の二月十一日に開かれています。「上毛新聞」は「反建国祭」と報道していますが、まさに、開催日そのものに意味があるわけです。つまり、これらの行事そのものが、迫り来る戦争の危機に対しての、反戦平和の意思表示だったのです。九月六日の「多喜二奪還事件」から十二日後の同月十八日には、満州事変が起こっています。 |
2、「多喜二奪還事件」の序幕 |
講師の一人である村山知義の資料によると、講師一行は、上野駅より全員で出発しています。当時の時刻表から見ると、上野駅九時二五分発の列車三〇七号前橋行きでした。その講師一行を菊池敏清と菊池盛男は本庄駅に迎えに行きますが、二人は早く着いたので、本庄駅から上りに乗り、深谷駅で降り、列車三〇七号に乗り込み、講師一行と会い、本庄駅で下車しています。この時の様子を菊池敏清は、「座談会」で「とにかく乗客の顔をしらみ潰しに見てあるいた。」「ゆかた姿で将棋をさしている一行を見つけることができた。」としています。多喜二没後六十周年の講演の方では「中をずうっと見て歩く訳です。そしたらね、将棋指してるんがいるんですよ、将棋を。『へえー。』と見てたが、この人がどうも小林さんらしい。聞いたら『はい。確かにそうです。』『じゃあ、この次が本庄ですから降りて下さい。用意して下さい。』別に背広も何も着ちゃあいません。白地の、浴衣じゃないけど、単衣物(ひとえもの)着て、非常に気楽な格好で、それで本庄へついて降りた」わけです。高崎・前橋回りで伊勢崎駅に来るのより、利根川を越えて、伊勢崎に入る本庄の方が近いので、今でも利用されています。この事情を村山知義は「朝、一同上野駅から立った。」「上野を出て暫くすると、或る駅から主催者の農民組合の人が乗り込んで来て、前橋の駅には警官が出ていて全員逮捕する手筈になっているから、途中でおりてくれ、という。途中の或る駅でおりて、組合員の可成り大きな農家に行き」(『東京芸術劇場公演パンフレット』所収、一九六八年)と回想しています。深谷駅で乗り込んだ菊池敏清、盛男両氏とともに本庄駅で降り、大きな菊池敏清宅に行ったことが確認できます。特高の妨害もあったようですが、待たせてあったハイヤー(タクシー)を使い、講師一行と迎えの二人は無事に茂呂村の菊池敏清宅に到着します。到着は午後一時頃でした。 |
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3、「多喜二奪還事件」の第一舞台……茂呂村 |
午後一時頃、本庄に迎えに行った二人とともに、講師一行が菊池敏清宅に到着しました。敏清宅では、茶話会(小集会)が準備されていました。菊池邦作は、「多喜二の話は約一時間位でおわり、外の二人の作家からも何か話があってから、午后四時頃」(『随筆柿』)、夕飯を食べに近くの菊池盛男宅に移動したと述べています。ただ多喜二たちに夕飯を準備した木暮はる子は三時頃には一行がきたので、しばらく待ってもらったと言っています(『随筆柿』)。ともかく、一時間位の多喜二の話と中野重治、村山知義の話で、ほぼ二時間近くはかかったでしょう。参加者は、三十名くらいだったようです。吉田庄蔵の談話から女性の参加もあったことがわかります。また、菊池敏清氏が、多喜二の話が「台所と文学」という題だったと述べています。この点について、藤田廣登さんは多喜二の初めての選挙の応援演説で「『台所と政治がつながっている』という話を一所懸命しゃべった」(『小林多喜二とその盟友たち』)と説明しています。多喜二の語る様子を菊池邦作は「座敷の床柱を背にして、あぐらを掻き火のない大きな火鉢を前にして腕組みをして話をつづける姿」(『随筆柿』)と書き残しています。村山知義は、先の記述に続けて「組合員の可成り大きな農家に行き、仕方ないからそこで芝居をやる、ということになり、組合員を召集し初めた」(『東京芸術劇場公演パンフレット』)と書いており、茶話会に人が集って来る様子が印象的だったようです。講師一行は、小林多喜二、中野重治、村山知義は確実です。他で名前があがっているのが、三好久子です。彼女については、富沢実氏が講演の中で疑問を呈していますが、事件当事者の何人もが三好久子だと言っています。また、清洲スミ子の名もあがっています。俳優(劇団員)の人数は三人か四人だったようですが、女優二人は確かなようです。今回発掘された村山知義の回想によって、なぜ俳優が講師一行に一緒にきたのかという謎は解けました。この文芸講演会には「左翼劇場の芝居」が用意されていたのでした。蛇足ですが、講師三人のうちで群馬に来た経験のあるのは、中野重治だけでした。伊藤信吉の故郷、総社町の祭りに来ています。そういう関係で、伊藤信吉の文芸講演会への連帯のメッセージを預かったわけです。 |
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4、「多喜二奪還事件」の第二舞台……共栄館 |
共栄館の入場券は、一枚二十銭で三百五十枚作り、当日会場で二百五十枚の回収は竹内幸作が確認しています。混乱した後に来た人もいると想定できるので、二百五十人を越える人が参加していたでしょう。「上毛新聞」でさえも「二百余名」と伝えています。開会の六時前には、満員になっていたと考えられます。 |
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5、「多喜二奪還事件」の第三舞台……伊勢崎警察署仮庁舎 |
時間をちょっと戻して見ましょう。多喜二たち講師一行と幹部グループは五時頃検束され、伊勢崎警察署に護送されました。村山知義の「丸太で囲んだ、猿の檻のような所だ。」というのが、木造の仮庁舎にぴったりの表現です。菊池敏清も「木造の、粗末な、家の、伊勢崎警察署、本当に。周りにドブみたいのがあって」とか「本当にちっぽけな、木造の悪い建築」と話しています。菊池邦作によれば、多喜二たち講師三人は「礼をつくし」「保護室」に入れ、自分は独房に入れられ、他は「人数が多いので」「収容し切れず」、斉藤力は「事務室のまん中に監視つきで座らされる」状況だったと回想しています。このような検束者の収容も六時前後には一段落したと推測されます。 |
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6、「多喜二奪還事件」の終結 |
遠藤可満は、午前一時頃に泉特高課長から「最年長者」だからと「事態の収拾」を持ちかけられています。坂内一登司は、「民衆側の代表は、石井君、吉田君、それに遠藤君」と三人を挙げていますが、吉田庄蔵は「石井弁護士と僕」と二人だけです。渋沢広吉は「僕と石井弁護士と吉田さんの三人」を、菊池邦作だけは「石井弁護士を筆頭に、遠藤可満、吉田庄蔵、渋沢広吉」と四人を挙げています。この警察側と民衆側の交渉は妥協が成立する午前二時頃まで何回か行われたことが「その都度大衆側に報告」などという表現から読み取れます。つまり、交渉は菊池邦作のいう四人の中から行われたということでしょう。 |
2009年4月26日、長谷田直之 |