解説「多喜二奪還事件」(伊勢崎事件)

1、「多喜二奪還事件」の前提

 「多喜二奪還事件」を簡潔に表現したのは、『随筆柿』に載る菊池邦作「伊勢崎署占領事件」で紹介された菊池盛男の次の言葉です。「俺はこれから伊勢崎署に、不当検束されている小林多喜二、中野重治、村山知義の諸先生や同志を奪還にゆくんだ。自ら進んで警察にゆく俺を検束する必要はない。」これは、茂呂村の菊池敏清宅での検束を逃れた菊池盛男が文芸講演会の会場である共栄館に走り、真相を聴衆に訴えた中での言葉です。つまり、官憲側は、伊勢崎の青年グループが計画した文芸講演会の講師としてやって来た多喜二たち講師陣とこの文芸講演会を企画した幹部グループを事前に検束し、この文芸講演会の開催を阻止することを狙ったわけです。この弾圧の目的について、矢島孝は「民衆の勝利 伊勢崎警察署事件」の末尾で「活動家を検挙・起訴・実刑というレールに乗せるのではなく、社会主義思想の広がりを断固抑えるという思想妨害であった。」(徳江健・石原征明編著『事件と騒動 群馬民衆闘争史』)と論じています。ここでいう「思想妨害」は、治安維持法によっての弾圧を意味していますが、関口正己は「戦禍の中の暮らし」で、「戦争は県民の暮らしを脅かした。戦争はいつの時代も人々の生活を圧迫し自由を奪ってきた。」として、本事件などを挙げて、「戦争への序奏ともいうべき布石は厳しい言論封じから始まっていた。」と指摘しています。
  
  ところが、本事件は、そういう弾圧を民衆の力で跳ね返したところに大きな特徴があります。事態の推移の中で、一時的にせよ民衆が「警察署を占領」するという事態が生まれます。この事態を菊池邦作は「伊勢崎署占領事件」の冒頭で「常識上ちょっと想像もできないような珍しい事件」「戦争前の無産運動に経験をもつ者にとっては、到底信ぜられない」「誰も取調べもうけず、調書もとられずに釈放されたという珍事件」(『随筆柿』)と述べています。坂内一登司や吉田庄蔵は「普通なら騒擾罪」と語っています。戦後いち早く日本の民主化の論陣を雑誌『潮流』で作った吉田庄蔵は、昭和二十一年九月号の編集後記で「今度の座談会で久しぶりに鹿地亘氏に会った。十数年前のことである。鹿地氏たちをめぐり日本社会運動史上特筆すべき大きなことがらが、いまだ未発表のまま残されている。いつか発表の機を得たいと思う。」と語っています。鹿地氏が伊勢崎に来たのは、この時ではなく、多喜二奪還事件から約半年後の昭和七年二月十一日のことでしたが、「日本社会運動史上特筆すべき大きなことがら」というのは、この「多喜二奪還事件」と考えていいでしょう。
  以上のような民衆のエネルギーが爆発した背景の一つに、主催者グループの特徴が関わっていると思います。主催者グループは、菊池邦作の「群馬県社会運動の歩み(下)」(『労働運動史研究』十九号)の「伊勢崎警察署占領事件」の項で述べられた「伊勢崎町の社民党【社会民衆党】支部を中心とする文化団体」とするのが一般的です。普通なら無産運動の右派で、反共を特徴とする社会民衆党ですが、このグループは違いました。主筆の菊池邦作、当時は小林邦作でしたが、彼を主筆とした『上毛大衆』が二年近く発行され、菊池邦作は「治安維持法を撤廃せよ」という論文を書く程、国家権力との対決姿勢を鮮明にしていました。また、ナップ会員であった菊池敏清を中心に『戦旗』の定期購読が五十部あり、最高時には百五十部に到達していました。この多喜二奪還事件の一年前には、「無産青年新聞」への大弾圧があり、社会民衆党員であった斎藤力と菊池盛男は約九ヶ月の未決勾留を余儀なくされ、その後起訴されました。二人への執行猶予の判決が出たのは、奪還事件のわずか一ヶ月前に過ぎません。つまり、地下の日本共産党の指導を受けた共産青年同盟の合法的機関紙として発行されていた「無産青年新聞」の読者網もあったわけです。社会民衆党の伊勢崎支部は、昭和六年に六十名となっており、彼らは革新的な雑誌や新聞を読み、労働組合運動から農民運動、プロレタリア文学運動まで多用な活動を展開していました。さらに、奪還事件から四ヶ月後の翌年一月には菊池盛男が中心となり、消費組合運動が始まり、そのために、無産政党の伊勢崎支部を解散しています。つまり、彼らは、民衆の要求に根ざした、粘り強い、多様な運動を展開していたと言えるでしょう。この「多喜二奪還事件」が、彼らのその活動の一つの成果であるとともに、より一層の促進になったと考えられます。
  次に、これまで見落とされてきた点があります。それは、一九三一年九月六日(日)という日は「国際青年デー」だったということです。日本国内では、「国際無産青年デー」として、無産青年の要求と反戦平和の旗が高く掲げられ、各地で運動が取り組まれました。東京朝日新聞群馬版九月五日付によると、九月六日(日)午後六時に、「佐波無産青年主催の文芸講演会」とあります。この点を石原征明(ゆくあき)は重視し、「この日は伊勢崎の共栄館で、無産青年同盟有志の主催によるプロレタリア作家文芸講演会が開かれる」(『ぐんまの昭和史(上)』)と述べています。「佐波無産青年」が「国際無産青年デー」と無関係のはずはありません。この「国際無産青年デー」を意識して、本事件の文芸講演会は設定されたと考えられます。そのことを裏付けるのは、同じグループが五ヶ月後に開いた文学研究会です。それは、建国記念日の二月十一日に開かれています。「上毛新聞」は「反建国祭」と報道していますが、まさに、開催日そのものに意味があるわけです。つまり、これらの行事そのものが、迫り来る戦争の危機に対しての、反戦平和の意思表示だったのです。九月六日の「多喜二奪還事件」から十二日後の同月十八日には、満州事変が起こっています。

2、「多喜二奪還事件」の序幕

講師の一人である村山知義の資料によると、講師一行は、上野駅より全員で出発しています。当時の時刻表から見ると、上野駅九時二五分発の列車三〇七号前橋行きでした。その講師一行を菊池敏清と菊池盛男は本庄駅に迎えに行きますが、二人は早く着いたので、本庄駅から上りに乗り、深谷駅で降り、列車三〇七号に乗り込み、講師一行と会い、本庄駅で下車しています。この時の様子を菊池敏清は、「座談会」で「とにかく乗客の顔をしらみ潰しに見てあるいた。」「ゆかた姿で将棋をさしている一行を見つけることができた。」としています。多喜二没後六十周年の講演の方では「中をずうっと見て歩く訳です。そしたらね、将棋指してるんがいるんですよ、将棋を。『へえー。』と見てたが、この人がどうも小林さんらしい。聞いたら『はい。確かにそうです。』『じゃあ、この次が本庄ですから降りて下さい。用意して下さい。』別に背広も何も着ちゃあいません。白地の、浴衣じゃないけど、単衣物(ひとえもの)着て、非常に気楽な格好で、それで本庄へついて降りた」わけです。高崎・前橋回りで伊勢崎駅に来るのより、利根川を越えて、伊勢崎に入る本庄の方が近いので、今でも利用されています。この事情を村山知義は「朝、一同上野駅から立った。」「上野を出て暫くすると、或る駅から主催者の農民組合の人が乗り込んで来て、前橋の駅には警官が出ていて全員逮捕する手筈になっているから、途中でおりてくれ、という。途中の或る駅でおりて、組合員の可成り大きな農家に行き」(『東京芸術劇場公演パンフレット』所収、一九六八年)と回想しています。深谷駅で乗り込んだ菊池敏清、盛男両氏とともに本庄駅で降り、大きな菊池敏清宅に行ったことが確認できます。特高の妨害もあったようですが、待たせてあったハイヤー(タクシー)を使い、講師一行と迎えの二人は無事に茂呂村の菊池敏清宅に到着します。到着は午後一時頃でした。

3、「多喜二奪還事件」の第一舞台……茂呂村

 午後一時頃、本庄に迎えに行った二人とともに、講師一行が菊池敏清宅に到着しました。敏清宅では、茶話会(小集会)が準備されていました。菊池邦作は、「多喜二の話は約一時間位でおわり、外の二人の作家からも何か話があってから、午后四時頃」(『随筆柿』)、夕飯を食べに近くの菊池盛男宅に移動したと述べています。ただ多喜二たちに夕飯を準備した木暮はる子は三時頃には一行がきたので、しばらく待ってもらったと言っています(『随筆柿』)。ともかく、一時間位の多喜二の話と中野重治、村山知義の話で、ほぼ二時間近くはかかったでしょう。参加者は、三十名くらいだったようです。吉田庄蔵の談話から女性の参加もあったことがわかります。また、菊池敏清氏が、多喜二の話が「台所と文学」という題だったと述べています。この点について、藤田廣登さんは多喜二の初めての選挙の応援演説で「『台所と政治がつながっている』という話を一所懸命しゃべった」(『小林多喜二とその盟友たち』)と説明しています。多喜二の語る様子を菊池邦作は「座敷の床柱を背にして、あぐらを掻き火のない大きな火鉢を前にして腕組みをして話をつづける姿」(『随筆柿』)と書き残しています。村山知義は、先の記述に続けて「組合員の可成り大きな農家に行き、仕方ないからそこで芝居をやる、ということになり、組合員を召集し初めた」(『東京芸術劇場公演パンフレット』)と書いており、茶話会に人が集って来る様子が印象的だったようです。講師一行は、小林多喜二、中野重治、村山知義は確実です。他で名前があがっているのが、三好久子です。彼女については、富沢実氏が講演の中で疑問を呈していますが、事件当事者の何人もが三好久子だと言っています。また、清洲スミ子の名もあがっています。俳優(劇団員)の人数は三人か四人だったようですが、女優二人は確かなようです。今回発掘された村山知義の回想によって、なぜ俳優が講師一行に一緒にきたのかという謎は解けました。この文芸講演会には「左翼劇場の芝居」が用意されていたのでした。蛇足ですが、講師三人のうちで群馬に来た経験のあるのは、中野重治だけでした。伊藤信吉の故郷、総社町の祭りに来ています。そういう関係で、伊藤信吉の文芸講演会への連帯のメッセージを預かったわけです。
 三時頃から四時頃の間に、夕食を食べに菊池盛男宅に移った一行は、そこで茗荷の味噌汁を食べ、お代わりまでして大鍋を平らげたといいます。当時夕飯を準備した木暮はる子は、白い着物を着た多喜二が茗荷汁がうまいと喜び二杯たべ、「この辺では茗荷が沢山獲れるのですか?」と聞いたので「たべ切れない程とれます」と答えると「田舎はいいですね」と言って、笑った、それが忘れられないと回想しています。(『随筆柿』)小暮はる子は、菊池盛男のすぐ下の妹になり、多喜二と会話をした数少ない生き証人の一人で、九十七歳です。また、末っ子の正は、当時小学校三年生で、多喜二に頭を撫でられて、「大きくなったら何になるのかな?」と聞かれ、「弁護士になりたい。」と答えたのをよく覚えているそうです。八十七歳ですが、ご壮健です。既に兄の盛男さんが検束された経験があり、裁判の関係で弁護士が家に出入りしていたので、「弁護士」という職業を知っていたそうです。

  

 五時頃には夕食を食べた講師一行は、一度菊池盛男宅から菊池敏清宅に戻りました。ここに、警察の二台のトラックが乗り付け、関係者は総検束されたわけです。逃れたのは、渋沢広吉、吉田庄蔵、菊池盛男だと『随筆柿』では指摘しています。この検束は、午後五時前後だったでしょう。(「上毛新聞」は午後六時頃としていますが、これでは講演会の開会自体に講師が間に合わないことになります。)『随筆柿』で茶話会に出席した名前が一五人あがっています。筆者を加え、十六人です。この中で、共栄館への移動が確認できるのが、上記三人に加え、弥勒寺撰三と竹内幸作です。茶話会終了直後に、共栄館に直行したと見られます。木暮はる子は「女優二人をふくめ七〜八人の一行が、家の奥の座敷へドヤドヤと上り」と語っており、夕食は講師一行が中心でした。吉田庄蔵は、「参会者が三々五々会場から、帰りかけていた時」にトラックがやってきた、女性の参会者を逃がしたと言っています。

  「逆に、検束が新聞報道で確認できるは、菊池邦作、菊池敏清、斉藤力の三人です。後で検束された菊池盛男を足して四人ですが、「上毛新聞」では「五名」と報道しています。真下富太郎(『随筆柿』の中の慎太郎や真太郎は誤り)が集会の届け出をしたので、「二日置かれた」と語ったことが伝えられており、彼を入れれば、五人となります。一六人のうち検束を逃れたのが五人、この時点で検束されたのが四人、残り七人は叙述からは不明ですが、ほとんどは後者の検束になったと推測されます。それを考えるには、場所を伊勢崎警察署に移動する必要がありますが、その前に共栄館の文芸講演会の方に目を移してみましょう。

4、「多喜二奪還事件」の第二舞台……共栄館

 共栄館の入場券は、一枚二十銭で三百五十枚作り、当日会場で二百五十枚の回収は竹内幸作が確認しています。混乱した後に来た人もいると想定できるので、二百五十人を越える人が参加していたでしょう。「上毛新聞」でさえも「二百余名」と伝えています。開会の六時前には、満員になっていたと考えられます。
  五時頃には、菊池敏清宅で講師一行と主催者グループの一部が検束され、逃れた吉田庄蔵はオートバイで、家に一旦寄り、前橋の社大党【社大党は社会大衆党の略ですが、成立は翌年のことで、この時は新労農党、全国大衆党、社会民衆党合同推進派が統一し、全国労農大衆党が成立していました。】の事務所に電話を入れてから共栄館に向かっています。夕飯の片付けを手伝ってから敏清宅に戻った菊池盛男は、検束を知り、自転車で共栄館に急行します。開会予定の六時頃、あるいは、六時を過ぎていたとも考えられます。駆けつけた菊池盛男が壇上に上がり、聴衆に総検束の不当性を訴え、検束しようとする警官ともみ合いながら、「小林多喜二、中野重治、村山知義の諸先生や同志を奪還にゆく」と叫びますが、検束されます。ところが、連行される菊池盛男の後に百五十名位の聴衆が伊勢崎署に向かいます。この抗議の行進が、「東京朝日新聞」で検束された多喜二たちを「奪還すべく」行われた「デモ」として報道されたと考えられます。
 共栄館の主催者グループは、弥勒寺撰三によると、菊池盛男の検束後、一度共栄館近くの斉藤力宅二階で対策会議を開いています。これは、吉田庄蔵も「相談の結果」「講演会だけはやることに決」めたと述べており、さらに弥勒寺撰三によると「全県下から同志を緊急動員すること」も決まっています。「上毛新聞」が文芸講演会の開会を「午後七時頃」としたのは、遅れて開会された時間のことだと考えられます。ともかく一時間位遅れて、文芸講演会は開始されました。
 多喜二達講師陣が検束されているので、代理弁士が演壇に立ちますが、次々と中止を命じられます。弥勒寺撰三によると、応援に駆けつけた佐田一郎も演説をして、中止を受けています。弥勒寺撰三自身も演壇に立ち、三好十郎「棺の後ろから」という詩を朗読したが、これも中止になりました。この詩は『戦旗』一九二八年七月号に載っていることがわかりました。この号は創刊第三号ですから、『戦旗』発行時より、読者であったことが考えられ、『戦旗』読者網の確立が相当早かったことをうかがわせます。吉田庄蔵は、「十三人位の弁士全部が、中止されたので、聴衆が怒ってしまい、総立ちになり、講師を返せと迫り警察官と対峙」状態になったと語っています。菊池(小林)邦作の長男である小林進は、当時小学校二年生でした。家は、蚕の種を扱う「忠桑館」でしたが、番頭さんの自転車の後ろに乗って出かけた先がこの講演会でした。会場は満員で、立ち見の人が壁際にあふれていたそうです。盛男おじさんが通路を走って壇上に駆け上がりみんなに訴え、弁士中止を受けたが、やめなかったら会場の私服が四、五人駆け上がって取り押さえたそうです。そして、聴衆が総立ちになり、背が足りず何も見えなくなったそうです。後年、共栄館の横を通るたびに、その時の沸き上がるような熱気を思い出していたそうです。
  そこで、共栄館の主催者グループは、二回目の対策会議を持ちます。今度は共栄館の楽屋です。その結果、「今夜十二時を期して、伊勢崎署の襲げき」が決まり、動員のため「半鐘を乱打」するなど役割も決まりました。しかし、この計画は実行されませんでした。この共栄館の主催者グループは待機してから、新聞記者に「対策は明日だ。」と言って、彼らを帰しました。「上毛新聞」に「十時半頃閉会」と書かれているのは、この時間だと推測されます。この後、共栄館の主催者グループと聴衆は、伊勢崎警察署に移動し、「東京朝日新聞」に「大乱闘」と報道される現場に立ち会うことになります。つまり、伊勢崎署への意図的な襲撃は必要がなかったというか、「大乱闘」が起こったのです。いよいよ伊勢崎警察署仮庁舎に移ります。

5、「多喜二奪還事件」の第三舞台……伊勢崎警察署仮庁舎

 時間をちょっと戻して見ましょう。多喜二たち講師一行と幹部グループは五時頃検束され、伊勢崎警察署に護送されました。村山知義の「丸太で囲んだ、猿の檻のような所だ。」というのが、木造の仮庁舎にぴったりの表現です。菊池敏清も「木造の、粗末な、家の、伊勢崎警察署、本当に。周りにドブみたいのがあって」とか「本当にちっぽけな、木造の悪い建築」と話しています。菊池邦作によれば、多喜二たち講師三人は「礼をつくし」「保護室」に入れ、自分は独房に入れられ、他は「人数が多いので」「収容し切れず」、斉藤力は「事務室のまん中に監視つきで座らされる」状況だったと回想しています。このような検束者の収容も六時前後には一段落したと推測されます。
 この直後に、警官に検束、連行された菊池盛男が伊勢崎署に到着したと考えられます。「留置所に放りこまれないで、奴等の監視下におかれた」ということですが、これは既に収容できる部屋がない状態だったことと対応します。この菊池盛男の後を追って、抗議のデモ行進が警察署に迫ってきます。菊池敏清は、多喜二没後六十周年記念講演で「馬鹿ににぎやかになったなと思ったら、何だか表の方で、ゴーゴーゴーゴーする。」「そこへ、ワッショイワッショイ入って来た。向こうは驚いていたらしい。こんなに来るとは思わねえ。おそらく八十人、百人近く行ったと思うんです。」と語っています。留置所の中からデモ行進が「ワッショイワッショイ」と、「東京朝日新聞」によれば警察署に「乱入」したのです。これによって、警察署の周辺は一気に「騒がしく」なり、「留置されている方も、それに勢いずいて、足をバタバタして床を踏み鳴らしたり、『早く出せ!』『演説会を潰すつもりか?』などと怒鳴ったりした。」と菊池邦作は書いています。この状態は「多喜二は一刻も黙っていない。『署長を出せ!何で俺たちをこんな所に入れた?』『署長はもう官舎へ帰った。』と巡査がいう。『それなら官舎へ行って連れて来い。そんな無責任なことがあるか?』と、多喜二は丸太を叩き、床を踏み鳴らし、あばれる。」と多喜二について回想した村山知義の記述と見事に一致します。
 このような状態の中で「外からよく揃った革命家の合唱の声が響」き、「留置所の中からも」「外の声に合せて革命歌を唱い出した」のです。渋沢広吉は「はじめこっちの勢力が圧倒的に強かったので、署長【以下、警官は】全部姿を消してしまい、警察はカラっぽになってしまった。署長もモチロンいない。そこで僕が一時署長になると云って、署長の椅子に腰をかけ」たと回想しています。菊池邦作は「警察の不当弾圧に激昂した民衆が、警察署を占領し、署内にアンペラ筵を敷いて、座りこみ、一時は署長以下全署員を追い出してしまった事件」と述べています。吉田庄蔵も「警官は全部署内から姿を消したので、仮庁舎の事務室を片づけ机や椅子は庭へ担ぎ出し物置から筵を引っぱり出して広くなった事務室に一同が座りこんだ」「警察の自転車は片ぱしから、前の川に投げ込む」と語っています。
 菊池盛男を追ったデモ行進が警察署に着き、警察署を包囲し、内外から威圧し、署長以下警官が退去し、民衆が署内に座り込み、署の内外で革命歌を歌うという占拠状態になりました。遅くとも午後七時頃には包囲状態になり、しばらくは威圧行為が続いた上で、占拠状態になったと思われます。警察側が警官の増員を行い、逆襲に転じ、「大乱闘」になるのが、ほぼ十一時頃、遅くとも十一時半頃であると考えられます。とすれば、占拠状態になったのは、八時頃から九時頃の間と推測できます。
 威信をかけた警察側の逆襲、警察署の奪還の中心は、署内に座り込む民衆の排除、外への強制撤去であったと考えられます。「どちらの側か、なだれを打って相手側に襲いかかったような気配」と菊池邦作は、独房の中で感じていますが、署内を占拠していた一人である渋沢広吉は「泉特高課長が警察官の一隊を引きつれて、われわれに襲いかかった。それで大乱斗になった。」とはっきり語っています。
  動員された結果、警官の人数が、吉田庄蔵は「一五〇人位」、坂内一登司は「二百人」になったと言っています。民衆の人数については、坂内一登司は同じ「二百人」、吉田庄蔵は「二―三百人」としています。渋沢広吉が少なめで「七、八十人」です。菊池邦作は「群馬県社会運動の歩み」では「集まった県下の精鋭分子三〇〇名」「聴衆を加えると五〇〇名」としていましたが、『随筆柿』では「三百人とも」「四百人ともいわれる」と断定を避けています。
 この「大乱闘」を菊池邦作は「もみ合うこと数回で戦いはおわった。勝負なしの引き分け」、渋沢広吉は「十一時頃から二時頃までやり合った」、吉田庄蔵は「力関係で警察側は大衆に押され勝ちでした。そのような対立状態が午前一時半まで位つづき」としています。また、遠藤可満(かまん)は大乱闘の最中に、前橋で動員した三十人とトラックで十一時半頃、駆けつけ、そのまま大乱闘に加わっています。

6、「多喜二奪還事件」の終結

 遠藤可満は、午前一時頃に泉特高課長から「最年長者」だからと「事態の収拾」を持ちかけられています。坂内一登司は、「民衆側の代表は、石井君、吉田君、それに遠藤君」と三人を挙げていますが、吉田庄蔵は「石井弁護士と僕」と二人だけです。渋沢広吉は「僕と石井弁護士と吉田さんの三人」を、菊池邦作だけは「石井弁護士を筆頭に、遠藤可満、吉田庄蔵、渋沢広吉」と四人を挙げています。この警察側と民衆側の交渉は妥協が成立する午前二時頃まで何回か行われたことが「その都度大衆側に報告」などという表現から読み取れます。つまり、交渉は菊池邦作のいう四人の中から行われたということでしょう。
 警察側と民衆側の妥協内容は、一九六〇年の菊池邦作は「一明朝講師を釈放すること、二主催者側は責任者一人を除き全員明日釈放する、三この騒ぎで犠牲者を出さない」としましたが、「@この事件の真相(警察占領のこと)は何れの側からも新聞に発表しないことA犠牲者を出さないことB留置されている者をすぐ無条件釈放すること」と変化しました。
  これは、例えば渋沢広吉が挙げた三項目「@全員翌朝までに釈放するAこの事件で犠牲者を出さないB新聞に出さない」とほぼ同じです。また内容的には同じですが、吉田庄蔵の場合は、「事件を公にしない(新聞記者に話さない)という条件」を前提に「夜が明けるまでに全員を釈放する。」従って「一人も犠牲者を出さない」ことを警察側が申し入れてきたと回想しています。本事件の社会的受容過程を見ると、吉田庄蔵の見解が最も説得力があるでしょう。つまり、民衆側の「事件を公にしない」と警察側の「全員を釈放」の交換だったわけです。しかし、警察側の検束自体が不当なものでした。この事件に関わった人々の多くが、敗戦に始まる日本の民主化に積極的に働きかけ、戦後民主主義の地域での確立と革新勢力の形勢に尽力しています。
 多喜二たち一行は午前五時頃本庄駅に送られ、東京に戻りました。この点について、応援に駆けつけた堤源寿は「私と福田と遠藤一郎の三人は夜明けに出すといってもほんとうかどうかわからないから釈放を確めようといって伊勢崎の斉藤力君の家に泊って交替で警察へ行って見張っていた。夜がまだ明けきらない薄闇内に自動車で送り出したと斉藤君が確めて来たので、斉藤君の家で朝食を馳走になって帰って来た。」(「団体協議会と伊勢崎警察署事件」、『月刊不屈ぐんま版』第3号)と回想しています。堤源寿と福田政勝は翌一九三二年には日本共産党に入党し、泉吉治とともに、日本共産党群馬県委員会を再建しました。

2009年4月26日、長谷田直之
「解説・伊勢崎事件」に加筆・訂正
本文中敬称を省略しました。